京の特集No.7

坂本龍馬の仲間とめぐる京散歩

幕末の志士が駆けた京のみやこ
近代日本の夜明けはこの街から始まった
そんな時代に思いを馳せて、散策のはじまり

町家の二階の坂本龍馬

坂本龍馬は1863(文久3)年頃から亡くなる1867(慶応3)年までの約4年間、京都で活動した。とはいえ、この国の政治・経済の大転換をリードした龍馬は多忙を極め、東奔西走、京での滞在は僅かな日数だった。伏見の寺田屋で襲撃され(1866年)、中京の近江屋では中岡慎太郎と共に暗殺されたこともあり、京都の人々は、この気宇壮大な若者を讃え、京都龍馬会など、多くの市民が盛んにその足取りを偲んでいる。

龍馬が観た当時の京の町は混乱の最中にあった。長州藩が追放された蛤御門(禁門)の変(1864年)、大火の消失家屋は2万7513戸、811町に上る。公家屋敷18軒、武家屋敷51軒、土蔵1,207棟、橋41、宮門跡3、芝居小屋2軒、髪結所132軒、253社寺、番部屋562棟ともいうが、失われた市中の3分の2は2万5千軒の町家である。当時50万人ほどいたという住民の大半は、この焼け跡から新時代の京都を再生させた。大火直後の1865年、薩摩藩邸に移った龍馬は襲撃を逃れ、翌66年に薩長同盟を成し、戊辰戦争から明治維新へと一気に時代を進めたのである。

幕末に京都で活躍した志士たちの舞台には花街や旅宿、商家が多い。町家である。それに比べ、帝や公家たちは内裏に、将軍と幕臣は二条城、会津候の本陣は黒谷の金戎光明寺、新選組も壬生の前川邸・八木邸など大きなお屋敷に、薩長藩士にも立派な藩邸があった。ところが龍馬は町家の二階、それも当時の屋根の低い厨司二階に起居した日々が多い。街中に潜んだ薩長土肥の下級武士こそが、時の権力を倒し、近代国家の礎を築いた原動力だった。その中でも特に、龍馬は京の民衆に近いところで活躍した。安政の大獄で獄死した三条柳馬場の医師の長女、楢崎龍(お龍)とのロマンスにも親しみを感じる人は多いだろう。

その龍馬は、その豊かな想像力と自由な精神で欧米思想を見事に消化し、町家の二階で、この国の壮大な未来を語った。志士たちだけでなく、京の人々にも新しい時代の息吹に大いに感銘を与えただろう。龍馬が予見したように、その後の京都は、権力とは離れたところで、近代の産業都市・商業都市として発展していく。龍馬が暮らした町家に住んだ人々が、焼け跡に無数の町家を再興し、自らの力で近代京都を築き上げたのである。

この意味で、龍馬の存在は明治維新の「市民革命」としての側面を思い起こさせる。土佐の地から、町衆を元気付ける自由の風を運んできたこの青年の偉業を、今も京都は忘れてはいない。だから、京都龍馬会も河原町商店街から始まった。幕末の町家の二階は、世界につながり、未来を拓く日本の中心だった。

宗田好史(京都府立大学)

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