西郷隆盛と歩く洛中めぐり
上賀茂神社
写真【7】

上賀茂神社
写真【8】
 おや坂本さぁを、「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」と評した。その坂本さぁのおかげで薩摩藩は幕末において大きく日本の舵取いをすうこっができた。ではこれからそん幕末政治の舞台となったエリアをご案内しもんで。
 現在は同志社大学となった我が薩摩藩邸跡(写真【7】)を過ぎて、相国寺を抜けていくと、たくさんの同志が眠っておう薩摩藩の墓地でごわす。手を合わせたら京都御所へ行っもそか。まずは尊王攘夷の志士として知られた公卿姉小路公知さぁの暗殺された「猿ヶ辻」へ。鬼門封じに祀られた 猿の彫刻があうこん辻で、公知さぁは夜更けに邸宅へ戻う途中、何者かによって暗殺されたでごわす。次に元治元(1864)年に長州藩が御所に攻め入ってきた「禁門の変(蛤御門の変)」の現場へ。当時の傷跡が残うこん門から御所へ入っと大きな椋の木があい、ここで長州藩のリーダーであった来島又兵衛が銃弾に倒れたこっで形勢が不利になった長州は敗走したのござんで。こん戦いで長州藩の敵方として会津藩と協力して活躍した我が薩摩藩は、以来長州藩とは犬猿の仲にんもした。
上賀茂神社
写真【9】
   そん後、長州征討が行われて長州藩は一時、保守派が支配すうこっとんもしたが、高杉晋作さぁらの活躍で再び息を吹き返し、ついに坂本さぁらの仲介もあって薩長同盟がなりもした。では京都御所を後に、京都府庁へまいいもそや。こちらは京都守護職の屋敷(写真【8】)があったとこいで、薩摩藩も一時はこちらで京都守護職を務めておられた会津藩主松平容保公とは協力しておいもした。こちらから堀川通に出うと水が流れ、新しゅ遊歩道もできて整備された堀川(写真【9】)を南に進み、幕末の大きな舞 台となった二条城までゆっくいと歩きもそや。二条城では第15代将軍徳川慶喜公が大政奉還をなさった場所で、討幕を考えておった我々薩長側にな大きな衝撃が走いもした。これでは倒すべき幕府が無くなったのと同じこっになう。国家を二分すうよな争いを避けたい坂本さぁの策と聞き、改めてあん人のとてつもん大きさを実感しもした。いやいやおそれいいもした。
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