義経とゆかりの人々


牛若丸誕生の井

義経と常盤御前
 源義経(幼名:牛若丸)は、平治元(1159)年、源義朝と“常盤御前”の間に生まれる。現在の北区紫竹牛若町辺りが誕生地と伝えられ、今も産湯に使ったという井戸が残る。父の源義朝は平治の乱で平清盛に敗れ、常盤御前と牛若丸も捕えられた。後の報復を恐れた平清盛は幼い牛若丸を殺すことを命じたが、常盤御前が平清盛に助けを請うと、常盤御前が清盛に付き従うことを条件に許された。そうして牛若丸は鞍馬寺に預けられることになった。

義経と鞍馬天狗


鞍馬寺
 鞍馬寺に預けられた牛若丸は、昼は寺で学業に励み、夜が更けると山深い僧正ガ谷で“鞍馬天狗”に兵法や剣術を教わった。今でも鞍馬から貴船へ通じ、その一部が「木の根道」と言われる道沿いには、「牛若丸背比石」「僧正ガ谷不動堂」「義経堂」など義経ゆかりの史跡があり、昼でも薄暗い森は神秘的な雰囲気が漂う。


五条大橋

義経と武蔵坊弁慶
 満月の夜、京の五条大橋の上で仁王立ちする鬼のような大男“武蔵坊弁慶”は、橋の向こうから笛の音を響かせながら静かに歩いてくる童子と出会った。「ただの子供か」と思った弁慶だが、その童子の腰の立派な刀を見て躍り上がった!今宵、弁慶はこの刀を手に入れれば、遂に千本の刀がそろうのである。長い薙刀を振り上げて切りかかる弁慶、しかし、この童子こそがあの源義経こと牛若丸であった。牛若丸は欄干の上をひょいひょいと飛び移り、鞍馬天狗に教わった剣術で弁慶を打ち負かした。それからというもの、弁慶は義経の家来として従い、のちに義経が奥州に落ちて亡くなる最期までずっと一緒であった。

義経と木曽義仲


法観寺
 京の都で横暴を極めた平家を打つべく、以仁王の命で挙兵した“木曽義仲”は、「朝日将軍」とまで言われたその勢いで平家を次々と破り、北陸街道から京へ入った。しかし京に入った木曽義仲の軍勢は人心を欺き、無秩序であった。また木曽義仲自身も後白河法皇と反目し、ついに源義経を総大将とする軍勢によって京から追討されることとなった。木曽義仲は宇治川・粟津の戦いと連戦連敗し、最後は敵の矢に射抜かれて命を落とした。その首は京でさらし首となった後、八坂の塔で知られる法観寺境内に葬られ、現在も小さな五輪の塔がある。


金戒光明寺

義経と熊谷次郎直美
 木曽義仲を討った後、いよいよ源平両軍の興廃をかけた決戦が始まった。前に海、後ろにけわしい山を背負った摂津福原に陣取った平氏一門十万の大軍を、源義経を含む源氏六万の軍勢が攻め立てた。しかし、堅固な守りを攻め落とすのは簡単ではなかった。そこで源義経は勝ちを一気に決めるため、背後の鵯越えから一気に断崖絶壁を馬で駆け下り、敵の不意をついた。これにより平家は総崩れとなり、船で沖へ逃げようとした。その時、源義経の軍にいた“熊谷次郎直実”は、波打ち際に立派な鎧を着た武者の姿を見た。無双の豪傑だった熊谷直実はたちまち相手を取って押さえたが、よく見れば我が子と同じ年頃の、まだ十六、七歳の若武者だった。熊谷直実は同じ年頃の我が子を思い出し、またこの若武者のいさぎよい立派な態度に感心して首を取る気になれず、助けてやろうとした。しかし、不運にも後ろから源氏の兵五十騎が駆け寄って来た。「お助けしようと思いましたが、あいにく味方の軍勢がやってきました。他の者の手にかかるなら、いっそ直実の手にかけて、後の供養もいたしましょう。」と涙ながらに刀を振り下ろし、首を取った。実はこの若武者こそ、十七歳になる平家の貴公子、平敦盛だった。
 のち熊谷直実はその時の無常から京都の黒谷で修行する法然上人の弟子となり仏門に入ったという。今でも黒谷の金戒光明寺には、熊谷直実が出家の時に着ていた鎧をかけた松「鎧掛けの松」と、平敦盛と熊谷直実の供養塔が並んで立っている。

義経と那須与一


即成院
 一の谷の戦いで敗れた平家は四国屋島まで総退却した。追う手を緩めぬ源義経はすぐに屋島まで兵を進め、再び合戦となった。源氏優勢で戦う中、しばらくすると陽が傾き始め、両軍とも戦いを止め、しばしの休息となった。その時、沖の方から小船が一艘、陸地近くへやってきた。船をよく見ると真ん中に竿を立て、先には開いた扇がはさんであった。そこで源義経は味方の中で一番の弓の名手“那須与一”を呼び、「あの扇を見事、射止めよ!」と命じた。息を止め、無想で放たれたその矢は、見事に扇を射止め、しばし両軍から賞賛の歓声が鳴り止まなかった。
 那須与一は戦いの後、京の即成院(泉涌寺塔頭)で出家し、戦死した人々を弔ったという。今も即成院には那須与一の墓が残る。


寂光院

義経と建礼門院徳子
 屋島の合戦に惨敗した平家は、ついに壇ノ浦まで敗走した。そしてついに最後の壇ノ浦の合戦の火蓋がここに切られた。互角の戦いの中、源義経の指揮する源氏の兵により、次第に平家は追い詰められた。平家一門はもはやこれまでと、次々と海に身を投げ沈んでいった。平清盛の娘“建礼門院徳子”も我が子、安徳天皇と共に海に身を投げたが、沈む我が子を目の前にしながら、源氏の兵によって助けられた。
 源義経の凱旋と共に京へ帰った建礼門院徳子は、長楽寺近辺で出家し、その後は大原の寂光院に小さな庵を建て、我が子、安徳天皇や平家一門の菩提を弔いながら余生を過ごした。

義経と静御前


左女牛井跡
 京に凱旋した義経は、美しい白拍子であった“静御前”を愛妾として、六条堀川館でいっしょに暮らしていた。木曽義仲を破り、平家を追討し、今の平穏な京があるのも義経のおかげだとして、京での義経の人気は高かった。これを知った鎌倉の源頼朝は、はなはだおもしろくない。今後、義経がこの人気に乗じて何をするかわからないと疑心暗鬼になった源頼朝は、ついに義経に対して刺客を放った。京を追われた義経と静御前は吉野山まで逃げるが、ここから先は険しい山のために止むを得ず分かれ、静御前は京へ戻る途中に捕らえられた。義経は奥州平泉の藤原秀衡のもとまで逃げるが、最後は追っ手に囲まれ、屋敷に火を放ち、燃える火の中で自刃した。
 現在、義経と静御前がしばし平穏に過ごした六条堀川館の中にあったという井戸「左女牛井」跡の石碑が残っている。

協力:MAUクリエイト
特集のトップへ戻る